効率的な会議が生み出す「死んだ時間」

その瞬間、気づいてしまった
ただただ進捗を共有するだけの進捗共有ミーティング。
「昨日は〇〇をやりました。今日は〇〇をやります。以上です」 「お疲れ様です。次の方お願いします」
皆淡々と進捗を共有して、それ以上の会話は起きない。質問もない。議論もない。みんな沈黙している。カメラはオフだったが、この「何も起きない感」は確実に伝わってくる。
この瞬間、私は直感した。「このチームには何かがある」と。
合理的だったはずの仕組み
デイリースクラムで進行役が固定化されているのは、実は合理的な判断から始まることが多い。毎回ファシリテーターを決める手間が省ける。慣れた人がやるから安定している。効率的だ。
でも、その「効率性」が実はチームの魂を奪っていく。
「自分の番が来るまで別の作業をしていればいいや」
集中が散漫になる。オーナーシップが失われる。いつまでたっても「自分たちの持ち物」という実感がわかない。メンバーは参加者ではなく、単なる報告者になってしまう。
これは、要求・要件定義でもよく見かける現象だ。「効率化のために少数精鋭で決めよう」として始めたのに、結果的に後々の説明会や認識合わせで何倍ものコミュニケーションコストがかかってしまう。
近代合理主義という呪い
なぜ私たちは「効率性」を追求したがるのか?
私の持論では、これは近代合理主義の思想が現代に深く根付いているからだ。学校教育から始まって、私たちは「効率的であることが良いこと」として刷り込まれてきた。自分で疑おうとしない限り、無意識のうちにその価値観で動いてしまう。
でも、効率性だけでは見えないものがある。
車が目的地に向かう時に起きること
あるプロセスのアウトプットは、決して一つだけではない。
車で目的地に向かうとき、私たちは「移動完了」という結果だけに注目しがちだ。でも実際には、ガソリンを消費し、道路を通り、もしかしたらタイヤで虫を轢いているかもしれない。プロセスには必ず多面的な影響がある。
デイリースクラムも同じだ。「情報共有完了」というアウトプットだけを求めると、チームメンバーの心やモチベーションへの影響が見えなくなる。アウトプットは出ているけれど、チームの心に響いていない状況が生まれる。
沈黙を打ち破る非合理なアプローチ
もし私がそのチームのスクラムマスターなら、こんなアプローチを試してみたい。
ルーレット+リレー形式
- ファシリテーターをルーレットで決める
- そのファシリテーターが次の発表者を指名
- 指名された人がまた次の人を指名するリレー形式
一見面倒くさそうに見える。でも、これによって「次に自分が来るかもしれない」という適度な緊張感と、「自分たちで決めている」という実感の両方が生まれる。
「めんどくさい」「今のままでいい」と言われるかもしれない。そんな時は、ちょっと渋い顔をしながらも「一旦やってみましょう」と提案する。完璧なスクラムマスターである必要はない。
沈黙が教えてくれること
沈黙は、チームの状況を映す鏡だ。
グラフィックレコーディングで視覚化するのか、問いかけ方を変えるのか、参加人数を調整するのか。アプローチは様々だが、大切なのは「一番レバレッジが高そうなもの」に着手することだ。
沈黙を見抜く力は、決して特別な能力ではない。でも、この感覚があることで「ミーティングがうまくいっていない」「チームの状況がよくない」ことを早期に察知できる。
非合理だけど大切なもの
効率性だけではなく、効果を大切にしたい。特に、プロセスが与える多面的な影響に目を向けたい。
スクラムマスターとして、アウトプットは出ているけれどチームメンバーの心やモチベーションがヒットしていない状況は、放っておけない。アプローチしていかなければならない領域だ。
デイリースクラムの沈黙から始まった観察は、チームの信頼関係、ファシリテーションの在り方、そして現代社会に根付く価値観そのものへの問いかけに発展した。
合理的であることの価値を認めながらも、時には非合理な選択をする勇気。それこそが、チームの魂を取り戻す第一歩なのかもしれない。
今日も、どこかのデイリースクラムで沈黙が生まれている。その沈黙の向こう側に、何が見えるだろうか。